腐女子のちオタク、ときどき日常、ところにより愚痴
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とゆーことで見て来ましたよ。
破ーっ。

見てる時には色々と語りたかったわけですが、見終わってみると魂全部持ってかれたみたいな気分で妙にフワフワしています。とりあえずDVDはマストアイテムかと!オサレ系雑誌っぽく表現してみたよ!



ネタバレとか嫌いな人は以下は読まない方がいいと思う。




端的に感想を言えと言われれば、テレビアニメ版ありきで新劇場版のシンジ君の方が好きです。
あのシンジ君なら、
「エヴァに乗らなくても僕は僕だ」
ではなく
「エヴァに乗っても僕は僕だ」
と言ってくれそうだと思った。
他人のために何かをすることと、自分を殺して生きることは、当たり前だけど、違う。と、思う。


カジさんの畑とか、(シンジにとって)綾波は一人しかいないとか。
オリジナルと比較することでそのメッセージ性は深くなると思う。
生きることも死ぬことも、エヴァではその意味が希薄だったのが。ヱヴァでは重くなったと思う。
シンジ君が生きようとしているからか。
オリジナルでの包帯は空々しかったのに、今回の絆創膏は生々しかったのもそーゆーことかと。


奇跡を待つより捨て身の努力よ。

と、エヴァでJAを止める時にミサトが言っていたのが、ヱヴァではリツコの台詞になっていて。
でもそのままではなく、「捨て身」が「地道」に代わっているところが、二人の共通点と相違点なのかもしれないと思った。

「カジ君」→「リョウちゃん」の変化も良かった。
リツコは、ミサト込みでカジさんが(恋愛感情ではもちろんなく)好きだったんだろうなぁ、とか。あの三人の過去を想像させてくれました。

カセットプレーヤーは、序を見たときになんで今風のデータ式のにしなかったんだろうと思ったんですが、こう使うか!って感じでした。
10年というリアルでの時間の経過を上手く使った秀逸なエピソードだったよね!

ヤバイ。なんか、褒め言葉しか出てきません。

再構築という作画手法は序のパンフレットでもかなり紙面を割いて紹介されていたのですが、それがストーリーでも上手く発揮されていて、10年という重みを感じさせられました。


オリジナルのエヴァを見ていたころ、私は確かにエヴァを見ることで癒されていた傷があって。
確立しきれない自我と、肥大した自意識の間で、この苦しみは大人も友達も分かってはくれない、と思っていたし。
それは今だからこそ、思春期なんてそんなもんだと思えるし、気恥ずかしいながらもそれはそれで一つの思い出だけど。
あの頃のあたしは、自分よりもヘビーで不幸なシンジ君を理解できたような気になることで、確かに救われていたように思う。
けれどエヴァのシンジ君に、今のあたしはもう自分を投影したりはしないし、できない。
あたしは、自分が両親に愛されて大切にされていることを、もう今更疑えない。
誰も私を分かってくれない、ことが。自分の身だけに降りかかった特別な不幸なんかではないと、知ってしまった。
言うこと聞いてエヴァに乗ってる、だから僕に優しくしてよ、なんて子供の論理を振りかざせない。


だから今の私は、それを確認するためにヱヴァを見るのかもしれない、と、思った。
10年という月日は、等しくみんなの上に流れて。それが私を変えたし、ヱヴァも変えた。
もう今の私は、シンジ君に感情移入しないと癒せない傷などないし。
シンジ君もアスカもレイも、きちんと前に進んでいた。
エヴァが終わる世界だったけれど、ヱヴァはきっと続く世界なんだろうと。破を見て思えた。





……坂本真綾を使うのならばエンディングも坂本真綾で良かったじゃないかと最後に一言だけ愚痴ってみる。

【2009/07/10 02:00】 | 言うほどオタクじゃないです
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